【郷土史家 八木均】

▼「桜井の荘」伝承とは・・・
 謡曲「鉢の木」の物語にある梅、松、桜の故事にならい、三日市は「桜井の荘」(庄)と呼ばれてきた。鎌倉時代にさかのぼる言い伝えは、時の鎌倉幕府五代執権・北条時頼(出家して最明寺入道)の全国行脚の旅から始まっている。吹雪の中、一夜の宿を求めた時頼に、鎌倉武士・佐野源左衛門常世は秘蔵の梅・松・桜の鉢の木を燃やし、暖かくもてなした。その恩に後年、加賀の梅田、上野の松井田、越中の桜井の三つの領地を与えた。その越中の桜井が三日市のあたりと伝えられている。

市民会館敷地内に「馬場桜」


 常世の練武の馬場地と伝える故事から「馬場桜」と呼ぶエドヒガン桜の古木が、市民会館敷地内にある。ここは旧天神社跡地にあたり、天神社は佐野源左衛門常世が「勧請」し、創建された社である。
 馬場桜の脇に本多十楼の句碑がある。
「いさおしを偲ぶや花の桜枝荘」と常世をしのび詠っている。


 明治期に書かれた「桜枝荘三日市誌」(平井順吾著)には、古老の伝えとしてこんな和歌が載っている。

「八心大市比古神社は桜枝庄三日市に鎮座、 孝謙天皇の勧請なり。
 御製あり
 七重八重ひらきむすびし狭庭に枝をちからに桜枝の庄」

 昭和3年11月10日、御大典記念に三日市立憲青年等が「佐野源左衛門尉常世」の遺跡碑を現市民会館東北ほ端に建立し、ふるさとの故事来歴を残した。 故事にある「桜井の庄」はいつごろから呼ばれ、そして、消えていったのだろうか。



室町時代の資料にも記述


 室町期から安土桃山時代にはすでに桜井の地名があったと考えられる。櫻井左内家(延喜式内社・八心大市比古神社)に所蔵されている「御師頭御入之家」と書かれた留帳の表紙に、慶長元年(1596)3月1日の日付とともに、越中桜井三日市と記されている。
 また約300年前の紀行文にも、桜井の庄は三日市として書かれている。
 「越路紀行」(宝永元年・1704年、本多藩医の磯一峰著)には、三日市駅で宿泊し、翌朝出発した様子が描かれている。
 『9月17日・・・滑川、おふづなど(魚津)過ぎて、はやつけ(早月川)片貝など云へる怪しき河、幾瀬か渡りて、布施郡、桜井の庄(三日市)着きぬ 。ここは佐野源左衛門が最明寺時頼より与えられた三つの庄の一つという。布施の浦も近く、三島のもつづけり』と詠んでいる。



「名水の里」という説も


 江戸時代になると新しい説が出てくる。江戸時代後期に富山藩士・野崎雅明の著書「肯構泉達録」には、桜井の名の由来について「ここには桜井という名水の井戸があったからだ」と記している。
 「越中に4つの名水あり。藤の井、花の井、桃の井、そして桜井なり。(中略)桜井は新川郡の庄にありしとなり。今三日市辺りなりと云う・・・(後略)」
 「黒部奥山と扇状地の歴史」(奥田淳爾著)には、このことにふれて、「当時の井戸は現在のように深くはなく、清水の流れのあるところに井堰を設け、その水を汲み取るもので、桜井の名は『名水の里』にふさわしく明るくすがすがしい感じがする」と表現している。



「紋」に桜のマーク


 この井桁の中に5枚の花弁を核にした紋は、大正15年(1926)に発行された「我が三日市町」の冊子の裏表紙に描かれている細桜花びら紋である。
 細身の花弁5枚に、花糸5本が花びらの間に均等に描かれ、「細桜」という名前がぴったりの優美で品のある桜花である。だが桜と家紋辞典などで調べても、これに該当する紋は今のところ全く見当たらないし、「井桁に桜花びら紋」は以外に少ないことが分かった。
 これほどの素晴らしい家紋は、本誌の編集に携わった家紋の専門職の山田彦四郎(寺町)さんが制作されたと考えられる。
 三日市小学校などの校紋もこれらと同じ系統の「井桁に咲く桜花びら紋」である。5枚の花弁を核にして、井戸の井桁をひし形にあしらい、黒部川扇状地における豊富な湧水と清らかな井戸水に感謝しつつ、祖先伝来のこの地、三日市の象徴を現した紋ではないかと考えている。



桜井町の誕生


 第2次世界大戦が始まる数年前から、富山県下では町村合併の機運が高まり、「皇紀2600年」にあたる昭和15年を目指して推進された。
 わが黒部地区でも昭和15年3月、石田村、田家村、村椿村、大布施村、三日市町、前沢村、荻生村、若栗村の1町7カ村をもて桜井町となった。人口は17535人(昭和14年度)。初代町長には森丘正唯氏(大布施村長)が就任した。これらは富山県下で始めての町村合併であり、その先駆けとなった。
 県はこれらの合併地区を「下新川郡桜井町」と名づけ、旧三日市役場を桜井町役場としたその後、八心大市比古神社で桜井町設置報告がなされた。
 県がなぜ「桜井町」と名づけたのかは、不明だ。おそらくは1町7カ村の核になる三日市が故事来歴から「桜井とは三日市」と言われたことから、自然に認められたのではないだろうか。



現在に生きる「桜井の庄」


 現在のコラーレや市民会館周辺一体は「字桜」の地番で、高橋川から東三日市、大黒町、椚町、大町、寺町、三島町の旧北陸街道沿い一体は「字桜枝」の地番である。
 荻生字新堂と字桜の境界地にかつては、「鎌倉時代の荘官地頭屋敷跡」があり、「ご賜田・ごしんでん」や「小梅山・こうめやま」と言い、佐野源左衛門常世との関わりを郷土の誇りとしてきたが、今は更地になってその遺構を見ることはできない。
 だが今も「桜井」の名前は生きている。市内には、桜や桜井を名づけた小売業や企業がたくさんある。八ッ櫻酒造、旅館桜館、県立桜井高等学校、市立桜井中学校、桜井建設、桜井ハム、桜井交通 、桜井木工所、桜井合同ガス、桜井生コンクリート工場、桜井病院、桜井文化服装学院、桜井マンション、桜井ビル、桜井ゼミ、桜井薬局、桜井呉服店、桜興産、さくらい商事、さくらい洋品店、犬猫病院さくら、桜町、電鉄桜井駅などである。
 ただ一つ残念に思うことは、「電鉄桜井駅」が「電鉄黒部駅」に変更されたことである。もっと故郷の地名を大事にしたいものである。