景勝桜を復活させよう
復活へのカウントダウン

上杉景勝が感動した桜
 
上杉景勝が感動した桜
   戦国時代、今の新潟県にあたる越後の国に上杉景勝という武将がいました。春日山城主として知られる上杉謙信の養子にあたる人物です。
 謙信の死後、景勝は越中国新川郡を治めるようになります。織田信長との戦いが続くなか、景勝は一転して越中国の攻防のために、越後の春日山から魚津城へ向かいます。当時は何日もかけての大移動です。黒部川を渡り、三島野といわれた三日市の麻地屋新左衛門の家で人馬を休めるため宿陣することになりました。
 その宿の庭で景勝は1本の桜の樹に出会います。見上げるような大木いっぱいに花を付けた、見事な満開の桜。景勝はその桜を褒め称え、以後、その桜を「景勝桜」というようになりました。
 
黒部市指定の天然記念物に
   黒部川の豊富な地下水で育った景勝桜は、樹齢800年を数えるエドヒガンで、高さ22メートル、幹周りは4.3メートルもありました。年輪による幹の太さ、樹木の高さ、見上げるよう上部の枝が扇子のように広がる雄姿は天下一品だったといいます。(写真)
 しかし、道路から奥まった閑静な民家の庭にあり、周りが塀で囲まれていたので、その存在を間近に知る住民はわりと少なかったようです。
 昭和30年には黒部市指定の天然記念物に指定されましたが、その後、巨木を支える回復力もなくなり、昭和49年ごろに枯死してしまいました。
 
人が集うまち・三日市へ
   上杉景勝が宿陣をとった三日市は、かつて宿場町として栄えました。
 徳川幕府による大名の参勤交代に加え、一般の旅人の往来も増えつつある中、寛文2年(1662)には黒部川の愛本に刎橋(はねばし)ができ、越中加賀藩領を通る北陸街道ができました。三日市村は、沓掛から黒部川を渡り入膳・泊へ向かう下街道(冬街道)と、愛本橋を渡り舟見・泊へ向かう上街道(夏街道)の分岐点として重要な地域。そこに北陸街道に沿って家が立ち並び、商人と職人、農業者らが混在する宿場町となったのです。
 その後、三日市には一般の旅人の宿泊する旅籠屋に加え、「お休み所」の茶店、市場などが集まり、著名人や文化人たちが足を休めました。市場と宿場の町として栄えた三日市には、遠くからも多くの人々が訪れるようになり、商業と政治の中心となったのです。
 景勝桜を復活させるとともに、「人が集うまち・三日市」のにぎわいも取り戻したいですね。
 
 


越中三日市町濱谷庭景勝桜

観光案内用「郵便はがき」として撮影(吉田堯一氏所蔵)
 

景勝桜と吉田準
耳鼻咽喉科医院長

昭和4年8月(1929)
石川写真館撮影(吉田祐次氏所蔵)
 

景勝桜の下で、
田上眼科医院長を囲み

昭和21年(1946)
(吉田堯一氏所蔵)
 


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