エッセイ私と桜
 

私と桜

 

金沢大学経済学部・文学部教授

平田 恩

昔から桜に「死」のイメージを結びつけるのはなぜでしょうね。平田さんのエッセイを読んでいろいろ想像が膨らみます。
 地に深く居る満開の桜の根(辻田克巳)

 春の甦りを喜び、花を愛でる万人の中に、花を支える地中の根を思う人はどれだけいるだろう。桜の花が美しいのは、実は、「お前、この爛漫と咲き乱れてゐる桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まってゐる(と想像してみるがいい)」からだと言います。
 この奇抜な発想は梶井基次郎(「桜の樹の下には」)ですが、さらに続けて「桜の根は貪婪な蛸のやうに(腐爛した屍体を)抱きかかへ、…屍体がたらす液体を吸ってゐる」というのです。北斎の「美女と大蛸・小蛸の図」を思わせるエロチックでグロテスクなイメージです。そしてこれは、桜の持つ、人を狂気に誘う妖しい官能美を見事に言い当てています。花のトンネルを歩けば、いつしか花の精に酔わされて精神は高揚し、人はみな詩人、芸術家となるのです。容貌まで変わってしまいます。その呪縛から解放され、再び日常に埋没するまでのほんの束の間。
 そんな「花の盛り」のさ中にあって「死」を覚えるのも、人間の叡智でしょうか。狐狸庵先生遠藤周作のお気に入りの句が

 死に仕度いたせいたせと桜かな(小林一茶)

 この頃ようやく、この句が切実味を帯びてくるようになりました。同級生、同僚がぽつりぽつりと欠けてゆく。「喪中につき」の葉書が増えた。なぜか、死亡欄にふと目が行く。だけど、死に仕度が少しでもできるか、となると極めて怪しい。むかしの西欧では、Memento Mori(Remember Death)と呼ばれる「しゃれこうべ」を机上に置いて、常日頃「死に仕度」を忘れなかったそうです。
 何事も後手後手にまわり、「愚者の後知恵」専門のわたくしは、失敗をしては後悔、自己嫌悪。それを忘れるために酒に頼ってまた後悔。自分(の死)だけは、まだまだ先のことと思っているのでしょうか、愚かにも。そうそう、良寛の辞世の句とか、人の命を「散る桜」に喩えていましたね。
 
 

トップページへ戻る